トップブログメール掲示板リンク全文検索
あは
かま
さや
たら
なわ
人物編
ギャグ編
番組編
キャラクター編
用語編

全文検索

jeal.kb

ロンドンブーツ1号2号・田村淳を中心に2005年、結成されたビジュアル系芸人バンド。2005年4月6日、「GBワンマンライブ オープニングACT」でデビュー。メンバーは、、haderu:ボーカル(ロンドンブーツ1号2号・淳)、mofto:ギター(菊池健一)、ediee:ギター(ニブンノゴ!・大川)、dunch:ベース(じゃぴょん・桑折)、elsa:ドラム(元チープスープ・衛藤)、chaos:キーボード(ハローバイバイ・金成)、hiden:バイオリン(ニブンノゴ!・森本)、sakura:盛り上げ役(ニブンノゴ!・宮地)。このほかにもライブには品川庄司・庄司、ロンドンブーツマネージャー、指圧野郎、ダイノジ大地らも関わっている。
公式サイト「we are jealkb!!」

 

GB

水玉れっぷう隊・ケン(ボーカル)、 元おはよう。・芦澤(ドラム) ブラザース・石割(ギター)、グレートホーン・斎藤(ベース)で構成されるバンド。「GB」とは、芸人バンドの略。テレビ東京系「アイアイタイフーン」の企画で誕生。「オリコン20位以内に入らなければ、芸人廃業」という約束のもと、発足したが、デビューシングル「足跡/負けるもんか」は34位に留まった。しかし、4組とも廃業はせず、その後もGBとしての活動も続けている。
足跡 [Maxi]
2P

 

獅子てんや・瀬戸わんや

1952年、コンビ結成。ひよこネタの漫才が人気で「ぴよこちゃん」というコミックソングまで発売した。「家族そろって歌合戦」の司会などで人気を得た。1987年、わんやが病に倒れ、活動を休止。1993年、わんやが死去。てんやは芸能界を引退。妻の薦めで在家仏教協会に所属し、講演活動を行う。

 

磁石

 

次長課長

中学の同級生コンビ。NSC13期生。吉本興業所属。1994年、結成。男前でおとなしい天然の井上聡ととぼけた顔で実はしっかり者、河本準一がアイデア溢れるシュールなコントを展開。漫才では河本がぼやきまくる形も持っている。番組では暴走気味の河本とまるで前に出ようとしない井上がコントラストになっている。「びじゅある」「シャンプー劇場」「土曜ドカンッ!!」などに出演。

 

シティボーイズ

小劇場養成所で知り合った大竹まこと、きたろう、斉木しげるが1979年に結成したコントトリオ。個々にタレント、役者として活動するようになっても、年一回のライブを続けている。毎回、新しい笑いに挑戦する演劇集団。

 

品川庄司

東京NSC1期生。1995年、結成。吉本興業所属。ココリコ、ロンブーに続くと期待される東京吉本のホープ。愛嬌あるブサイク品川祐と美形の庄司智春のコントラストがあるコンビ。品川がアイドル風の仕草で自己紹介する「品川です」で人気。テレビ、ラジオなど多数のレギュラー番組を抱える。「ココリコミラクルタイプ」などに出演。

 

柴田理恵

東京ヴォードヴィルショーを経て、1984年、作家、喰始と5人の役者でWAHAHA本舗結成。眼鏡と出っ歯が特徴的。WAHAHA本公演や一人での公演の他、親友、久本雅美と同じく庶民的なキャラクターで「オレたちひょうきん族」「笑っていいとも!」「SMAPXSMAP」などのバラエティで活躍。映画「きらきらひかる」「寝取られ宗介」「スーパーの女」などにも出演。

 

渋谷天外(二代目)

父は初代渋谷天外。楽天会、志賀廼家淡海一座を経て、1928年、曽我廼家十吾らと松竹家庭劇を結成。1929年、渋谷天外を襲名。1946年、松竹家庭劇を脱退して劇団すいーとほーむを主宰。1948年、松竹新喜劇を創立。舞台、ラジオ、映画と喜劇一本で活躍、上方喜劇王の異名をとった。1965年、脳血栓で倒れ、一線から引いた。1983年、死去。

 

渋谷天外(三代目)

二代目の二男。1977年、松竹新喜劇に入団。藤山寛美に目をかけられ、いずれは天外を襲名するようにといわれながら、1984年から2年間休団する。1988年、フリーとなるが、寛美の死後、1991年に新生松竹新喜劇代表に就任。同年劇団員の滝田女路と結婚。1992年、天外を襲名。テレビ「真田太平記」「都の風」、舞台「花のれん」「ドラキュラ」などに出演。

 

島木譲二

高卒後、プロボクサーを目指す。毎日放送のガードマンをしながら殺陣師、的場達雄の門下生となり、斬られ役になる。1980年、吉本新喜劇に移り、「吉本の渡哲也です」のセリフで売り出す。「パチパチパンチ!」「カンカンヘッド」「スピードハット」などのギャグで活躍。映画「ブラックレイン」にも出演。2002年、池乃めだかと「くまさんねこさん」を結成、「M-1グランプリ2002」で三回戦進出。2003年5月、再度、本格始動。

 

島崎俊郎

コントグループを経て、1979年、ヒップアップを結成。「オレたちひょうきん族」ではアダモステで人気者に。「天才たけしの元気が出るテレビ」「愛ラブSMAP」「新・諸国漫遊記」などに出演。1992年頃トリオは自然解消。バラエティ番組のほかドラマ「クズ!!!」に主演、ガングロユニット「アダモす」でCD「パパイヤランド」を発売するなど活躍。

 

島田一の介

島田紳助

 

島田紳助・松本竜介

紳助・竜助と呼ばれることが多い。1977年、結成。吉本興業所属。リーゼントに繋ぎという服装でテンポの速いヤンキー漫才やボクシングコントで漫才ブームで活躍。老人を攻撃したり、西川きよし邸放火計画など反社会的なことを題材にしていた。1985年、「ダウンタウン」のスローな漫才の大ウケぶりを見て、紳助がテンポの速い漫才はもう古いと、その日のうちに引退を宣言、解散。

 

島田珠代

高校時代から2丁目劇場にピンで出演。後に吉本新喜劇入り。石田靖に壁にぶつけられてからの「やさしいのね」や、男性にすがりつき、股間をはじいて「チーン」や「男なんてシャボン玉」などで人気。「笑っていいとも!」のレギュラーになるなど、東京進出も果たした。ルミネtheよしもとでの新喜劇に出演。

 

島田洋七

1971年、島田洋之介に入門。吉本興業所属。B&Bで活躍、解散後、「アフタヌーンショー」「風雲たけし城」などで活躍。1991年、B&Bを再結成。1995年、参院選に立候補。1996年、B&Bを再結成し、1997年、吉本興業に復帰。「みちのくワゴン寄席」を行う。1999年、映画「THE HEART MAN」の企画、脚本、主演を手がける。2000年、「吉本巣鴨人情喜劇 洋七一座」を結成。

 

島田洋之介・今喜多代

 

ジミー大西

1983年、ザ・ぼんちのおさむに入門。吉本興業所属。後に明石家さんまの付き人に。大ボケとキャラクターの面白さで「明石家電視台」などで活躍。「やってるやってる」「お前もがんばれよ!」などのギャグで人気者に。1992年、水彩画が高評価を受けてから絵画の道に入る。1996年、スペインに絵画留学、芸能界を引退。個展も開催。1997年、タレント時代のマネージャーと結婚。

 

清水アキラ

「ぎんざNOW」の素人コメディアン道場チャンピオン。1975年、ハンダースを結成。1978年、「思い出の渚」が30万枚の大ヒット。1983年からピンでものまねタレントとして活動。映画や舞台にも出演。「ものまね王座決定戦」でコロッケらと共に「ものまね四天王」と呼ばれる。スキーで国体に出場した経験がある。

 

清水圭

1984年、「清水圭・和泉修」でデビュー。吉本興業所属。大阪で人気者に。圭が東京進出、修が大阪に残り、事実上の解散。その後、「笑っていいとも」「平成教育委員会」「世界ウルルン滞在記」「奇跡体験!アンビリバボー」などに出演。大のサッカーフリークとしても有名。1994年に女優、香坂みゆきと結婚。

 

清水圭・和泉修

1984年、清水圭が同志社大学の後輩である和泉修を誘って結成。吉本興業所属。縮めて「圭・修」と呼ばれることが多い。当時、大阪で絶大な支持を受けていたダウンタウンの対抗馬として吉本に推される。大阪で多数のレギュラーを抱える人気者に。圭が東京に進出、修は大阪に残り、事実上の解散を迎えたが、コンビは継続。2001年、修の新コンビ結成を機に正式に解散。

 

志村けん

ザ・ドリフターズのメンバーの一人。元々は付き人であったが、荒井注脱退により、1974年にドリフターズのメンバーに加入。東村山音頭を大ブレイクさせるなど、主力メンバーに成長。「カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ」「志村けんのだいじょうぶだぁ」「志村けんのバカ殿様」など、常にコントにこだわって活躍。「変なおじさん」で子供からは爆発的人気を獲得。芸に対しては、非常にストイックであることで有名。

 

ジャリズム

山下栄緑、渡辺鐘のNSC10期生コンビ。1991年、結成。吉本興業所属。渡辺のアイデア溢れるボケやコントでのキャラクターの奇抜さ、山下の切れのいいツッコミで大阪で人気に。「爆笑Booing」「すんげーBest10」などで活躍。東京進出を果たすが、1998年、解散。山下は「山下しげのり」としてピンで活動。渡辺は構成作家になり、「笑う犬」などを担当。2004年、ライブを機に再結成を果たす。

 

シャンプーハット

専門学校で知り合った小出水直樹と宮田てつじのコンビ。変態チックな小出水と外人っぽいてつじが予想不可能のシュールな漫才を展開する。1994年にコンビ結成。吉本興業所属。オーディションで2丁目メンバーに選ばれる。1996年、全く無名で参加した「オールザッツ漫才」トーナメントで優勝。その勢いで大阪期待の若手へと上り詰め、レギュラーを多数持つ。「news」メンバー。

 

18KIN

今泉稔、大滝裕一のコンビ。ワタナベエンターテイメント所属。1997年4月結成。幼稚園からの幼馴染コンビ。時事ネタを盛り込んだ漫才が得意。大滝の放送禁止ギリギリの毒舌ボケに、甲高い今泉のツッコミがはいる。今泉の天然キャラもアクセントとなる。実力派コンビ。

 

春風亭一柳

1956年、三遊亭円生に入門。三遊亭好生の名で1973年、真打昇進。1978年の円生一門の落語協会離脱騒ぎの際、協会に留まったため破門され、名前を返上し、春風亭一柳を名乗った。その経緯を綴った「噺の咄の話のはなし」が話題になった。1981年、自殺。

 

春風亭昇太(二代目)

1979年、全国学生落語名人位決定戦で優勝。1981年に「ザ・テレビ演芸」で第1回グランドチャンピオンに。翌年、春風亭柳昇に入門。1992年、真打昇進。新作落語「ストレスの海」「力士の春」「悲しみにてやんでえ」などが好評を得る。「お好み演芸会」の司会、「平成名物テレビヨタロー」「ビッグトゥデイ」などテレビでも活躍。

 

春風亭小朝

1970年、春風亭柳朝に入門。1980年、真打に36人抜きのスピード昇進。「横丁の若様」のニックネームで人気者となり、博品館劇場30日間連続独演会、落語界初の日本武道館独演会など、落語界の若きリーダーにふさわしい活躍を続ける。ドラマ、司会、クラシック音楽、著作や落語のプロデュースなど多彩な活動を展開。1988年、林家三平の二女、海老名泰葉と結婚。

 

春風亭梅橋

1954年、柳亭小痴楽に入門。1957年、小痴楽で二ツ目、1969年、真打昇進し、春風亭梅橋となる。二ツ目時代から売れっ子で、笑点のレギュラーでブラックユーモア溢れる毒のある回答で人気を集めた。将来を期待されていたが、酒で身を滅ぼし、1984年、49歳の若さで死去。

 

春風亭柳橋(六代目)

11歳で春風亭柳枝に入門。1909年に初高座。1917年、真打昇進。1921年、柳橋を襲名。1930年、柳家金語楼らと落語芸術協会を設立、1974年まで会長。江戸訛りではなく、標準語の口調で落語の大衆化に貢献した。「時そば」「天災」「三味線栗毛」などが得意。「うどん屋」の改作「支那そば屋」や早慶戦を挿入した「掛取万才」などの新作も生み出した。1979年、死去。

 

春風亭柳好(七代目)

1950年、先代柳好に入門。1956年、師匠の死で柳橋門下へ移り、1958年、柳好を襲名。人情味溢れる噺家として知られる。映画「落語野郎」シリーズや「与太郎」シリーズなどに役者として出演。ほのぼのとした芸風で人気を得た。1992年に死去。

 

春風亭柳昇(三代目)

1946年、戦友の父、春風亭柳橋に入門。1949年、二ツ目で柳昇を襲名。1958年、真打昇進。大喜利の司会者などテレビ、ラジオに出演。「ガード下」「課長の犬」「免許証」「結婚式」など100作近くの新作落語を発表。戦争体験を綴った「与太郎戦記」はフランキー堺主演で映画化された。著作に「陸軍落語兵」「人に好かれる話し方」「寄席は毎日休みなし」など。

 

春風亭柳朝(五代目)

1951年、林家正蔵に入門。1962年、真打昇進、春風亭柳朝を襲名。鉄火でいなせな威江戸っ子らしい噺家。威勢のいいべらんめい調の口調の高座は粋で、人気を集めた。談志、円楽、志ん朝と並び四天王と呼ばれた。1982年、脳梗塞で倒れ、引退。1991年、死去。

 

庄司敏江・玲児

1966年、結成の元夫婦コンビ。離婚後もコンビは継続している。水平体当りに象徴されるどつきととぼけた口調のどつき漫才で人気を博した。敏江はかしまし娘の弟子で、1962年に「ちゃっかり娘」でデビュー。玲児は元々は松竹芸能のマネージャー。

 

ジョーダンズ

三又忠久、山崎まさやのコンビ。ビートたけしに入門し、1993年、結成。オフィス北野所属。三又の武田鉄也、長州力のものまねが話題に。「お笑い宇宙計画」「出てこいお笑い君」「ヨタロー総集編」「志村けんのだいじょうぶだあ」「志村けんのバカ殿様」「ボキャブラ天国」「ガハハキング」「ギルガッメシュナイト」、ラジオ「ハマラジクラブ」などに出演。

 

笑福亭鶴笑

1984年に笑福亭松鶴に入門し、1990年頃から人形を使ったパペット落語を考案し、1993年にはABCお笑い新人グランプリー優秀新人賞受賞するなど頭角を現す。国内での活躍の傍ら、ハンガリー、韓国、中国、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、アフリカ等で講演。1999年7月には世界3大コメディーフェステバルの一つ「カナダ・モントリオール国際コメディーフェステバル」に日本人として初めて正式招待を受け、メーン舞台を務める。2000年3月にはシンガポールに家族共々移住し、シンガポールを拠点に活躍。2001年4月、世界3大コメディーフェスティバル、オーストラリア・メルボルン国際コメディーフェスティバルに招待される。2003年3月、第53回芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞、7月には文化庁より日本第1号の文化交流使に選ばれる。2003年8月にイギリス・エジンバラフリンジフェスティバル初参加し、日本人で初めて世界
3大コメディーフェスティバルを制覇。2004年4月、ロンドンに拠点を移す。

 

笑福亭学光

1975年、笑福亭鶴光のもとに入門。松竹芸能所属。高座だけでなく、テレビ、ラジオで活躍。1992年、弁護士、井口博のアメリカ環境法についての記事がきっかけで、井口と地球環境落語の会を結成。1993年より年に数回、地球環境寄席を開いて席料を自然保護活動に寄付。1994年よりユネスコを通じて、中国の学校建設や援助活動に取り組む。著書に「学光 学校」

 

笑福亭笑瓶

1981年、笑福亭鶴瓶に入門。太田プロ所属。松竹芸能所属で「パロパロえぶりでい」「突然ガバチョ!」「ヤングタウン土曜日」で関西で人気者となり、その後、上京、太田プロに移籍し、「鶴ちゃんのプッツン5」などで人気は全国的になる。以後「しあわせ家族計画」「噂の!東京マガジン」「ダウンタウンDX」「HAMASHO」「踊る!さんま御殿!!」「VIぴー」「そっちこっち絶品勝負」などに出演。

 

笑福亭松鶴(五代目)

1903年、四代目松鶴に入門。1935年、松鶴を襲名。伝統的な上方落語の血を継ぎ、豪放な風格で大ネタから珍しい噺まで持ちネタが多く、第一人者として活躍。雑誌「上方はなし」の編纂で知られ、戦後の苦難の時代も実子の六代目松鶴、桂米朝ら若手を育て、上方落語界の盟主として奮闘した。1950年、死去。

 

笑福亭松鶴(六代目)

五代目松鶴の実子。米朝、春団治、小文枝と並ぶ上方落語「四天王」の一人。松竹芸能所属。1946年、初高座、光鶴、四代目枝鶴を経て、1962年、松鶴を襲名。豪放でありながら繊細さを合わせ持つ独特の芸風で人気を得る。得意ネタは「らくだ」「三十石」「市助酒」など。1968年から1977年まで上方落語協会会長を務めた。1986年、死去。

 

笑福亭松喬(六代目)

1969年、笑福亭松鶴に入門。松竹芸能所属。古典落語に力を注ぎ、早くからその力量を注目されていた実力派。師匠から「笑福亭の噺を一番うまいこと継ぐ」と認められていた。派手ではないが重厚で、じっくり聴かせる噺家。文化芸術祭優秀賞受賞の「らくだ」をはじめ、人情噺を得意としている。

 

笑福亭鶴光

素人名人会落語の部で名人賞受賞。1967年、笑福亭松鶴に入門。松竹芸能所属。1974年、「オールナイトニッポン」のパーソナリティーで全国的な人気タレントに。テレビ「それは秘密です」「スタジオ2時」「痛快!エブリディ」「情熱バラエティココほれ!ワンワン」ラジオ「鶴光うわさのゴールデンアワー」映画「トラック野郎」などに出演。下ネタ好きで有名。

 

笑福亭鶴瓶

京産大を中退して、1972年、笑福亭松鶴に入門。松竹芸能所属。関西を中心に「ぬかるみの世界」などで人気をつかむ。1986年、東京に進出。「笑っていいとも!」で全国的人気を得る。「鶴瓶・上岡パペポTV」「らくごのご」「平成日本のよふけ」「いろもん2」などバラエティ番組を中心に活躍するが、映画「東京上空いらっしゃいませ」「お引っ越し」などで役者としても活躍。

 

笑福亭仁鶴(三代目)

1961年、笑福亭松鶴に入門。吉本興業所属。1965年、深夜番組「大阪オールナイト」で人気を得る。以来、落語、演芸、放送、映画と幅広く活躍。「どんなんかなー」などのフレーズで有名。1984年から1994年まで上方落語協会副会長。テレビ「バラエティ生活笑百科」「大阪ほんわかテレビ」ラジオ「仁鶴の日曜思い出メロディー」映画「夢見通りの人々」「ああ独身」などに出演。

 

笑福亭松之助

1949年、五代目笑福亭松鶴に入門。吉本興業所属。1959年から吉本興業に所属。得意ネタは「くしゃみ講釈」 落語以外に新喜劇などにも出演。テレビ「余命半年」「京都マル秘仕置人」「三味線屋勇次」「海図のない旅」「昼さがり!どまんなか」映画「ビリケン」「岸和田少年愚連隊」「学校の怪談4」「花のお江戸の釣りバカ日誌」などに出演。明石家さんまの師匠。

 

昭和のいる・こいる

1966年、獅子てんや・瀬戸わんやに入門。1976年、NHK漫才コンクール最優秀賞を受賞。1984年、漫才協団九代目真打に昇進。ボケはリーゼント頭のこいる、ツッコミは柔和なめがね顔ののいる。「良かった、良かった」「しょうがない、しょうがない」「はいはいはいはい……」「へーへーホーホー」のいいかげんな相槌フレーズが大ヒット。テレビにも多数出演。

 

松鶴家千とせ(三代目)

1953年、入門。1973年、「ヘヘェーイ、シャバダバダ、俺が昔、夕焼けだった頃、弟は小焼けだった。父さん胸やけ、母さん霜やけ」の文句で有名なメルヘン漫談で人気者に。「わかるかな? わっかんねぇだろうなあ」のセリフも大ヒット。その後もブレイク漫談、演歌「人生達磨坂」などで活躍。1987年から芸能人の慰問団体「さつまいもの会」を主宰。

 

松鶴家千代若・千代菊

1923年、千代若は松鶴家千代八に入門。1929年、地方巡業中に千代菊と知り合い、1931年に結婚。「芸、心ともに合い寄るものあり」と民謡夫婦漫才を結成。「もうかえろうよ」などのギャグで人気を得た。漫才界の第一線で活躍する一方で、ツービートら数多くの芸人を育てた。1996年に千代菊が死去。千代若は舞台に立ちつづけたが、2000年、死去。

 

ショパン猪狩

17歳で兄パン猪狩主宰のトキワ楽団に入団。日本女子プロレスリングを創設、リングアナを務め、成功。後に東京コミック・ブラザースを結成、「レッドスネーク・カモン!」で始まるヘビのコントで人気が出るが解散。メンバーを新たに東京コミックショウとして再開。その後、妻の千重子と二人でキャバレーなどで活躍。1993年、妻が引退。一人で活動。

 

ジョビジョバ

1993年、明治大学の同期生、マギー、長谷川朝晴、坂田聡、木下明水、六角慎司、石倉力で結成。「ジョビジョバ大旋風」では明治大学551ホールの動員記録を塗り替える。1995年、「パルテノン多摩小劇場フェスティバル'95」で優勝。1998年、テレビ「さるしばい」「ロクタロー」で知名度を上げる。その他、CD、マギー初監督作品「ショコキ!」など幅広い活動。2002年12月、無期限の活動停止に。石倉は芸能界を引退、他の5人はそれぞれ、ソロ活動。

 

白木みのる

歌手からミヤコ蝶々の勧めで吉本興業入り。吉本新喜劇で活躍。1961年、「スチャラカ社員」、1962年、「てなもんや三度笠」に出演。藤田まことのあんかけの時次郎と珍念のコンビで大人気。1975年、松竹新喜楽座を旗上げ、座長。1年後に解散。以後、関西喜劇界で活躍。「番頭はんと丁稚どん」「北島三郎公演」「ミヤコ蝶々公演」「暴れん坊将軍」などに出演。

 

人生幸朗

都家文雄に入門。吉本興業所属。都家文蔵を名乗り、ぼやき漫才。戦後、妻の漫才師生恵幸子とコンビを組み、歌謡曲や世相、風俗をネタにしてぼやき倒し、評判になる。「責任者出てこい!」「世の中、なめとんのか!」のフレーズが流行。関西芸能親和会長も務め、古くから刑務所慰問を続ける。レコードに「幸朗・幸子のぼやき教室」 1982年、死去。

 

陣内智則

 

新野新

関西を代表する放送作家。「ペン企画」代表、「21芸能学園」学園長。古典芸能やミュージカルまで幅広い演芸評論やエッセイ、テレビの司会などで活躍。ラジオ「新野・つるべのぬかるみの世界」テレビ「新・たかじんが来るぞ」「痛快!知らぬは男ばかりなり」「ナイトinナイト」などに出演。「上方タレント101人」「父のくしゃみ」「タいのタイ」など著書も多い。

Affiliate
目指せ!M1漫才道
最新着うたサイト
懸賞情報なら懸賞ジャパン
【ΣBookJp】話題のデジタルブックが読めるPanasonicの電子書店

Copyright 2002-2005 Longwalk Entertainment. All Rights Reserved.
No reproduction or republication without written permission.