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斉木しげる
大学在学中から演劇に取り組み、小劇場養成所を経て、大竹まこと、きたろうとコントグループ「シティボーイズ」を1979年に結成。シティーボーイズとしての活動のほか、主に役者としてドラマ、舞台で活動。そのほかパチンコ番組の司会をしたり、飄々としたキャラを生かしてトーク番組に出演したりと活躍。
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西条凡児
1933年、九条芸児とコンビを組み、漫才でデビュー。芸児の戦死後、漫談に転向し、毒舌漫談で人気を得た。「素人名人会」「おやじバンザイ」などの司会で有名。「おみやげ、おみやげ」のフレーズと人情味溢れる司会ぶりが人気を呼んだ。1970年に恐喝疑惑が発覚し、芸能界から干される。その後「凡児の娘をよろしく」で復帰するが、番組終了をもって一線から引く。
財津一郎
帝劇ミュージカル、オペラ歌手、石井均一座、ムーランルージュ、吉本新喜劇を経て、1966年「てなもんや三度笠」に出演。「ひじょうにキビシーッ!」「〜してチョーダイ!」などのギャグで人気者に。多数のテレビ番組や映画に出演後、ミュージカルに専念する。1995年に脳内出血を起こして入院したが、翌年復帰し、活躍している。「竹本ピアノ」のCMでおなじみ。
斉藤清六
コント55号に憧れ、萩本欽一の付き人になる。「欽ちゃんのどこまでやるの!」でしゃべりの下手なアナウンサー「あぜ道カットの甘栗坊や」で人気者に。「村の時間の時間です」「バイナラ、ラナイバ」のフレーズが流行語に。「笑っていいとも」「ドレミファドン」などに出演。無芸と素人っぽさを売りに映画やドラマでも活躍。しかし、徐々にテレビでの露出は減っていく。
酒井くにお・とおる
堺駿二
昭和の浅草を代表する喜劇役者。早川雪洲一座、清水金一とのコンビを経て、1946年から喜劇映画に出演。アクロバティックな身のこなしとコミカルな演技で「喜劇の神様」と呼ばれた。舞台でも「雲の上団五郎一座」などで活躍。テレビではベテランのコメディアンぶりを発揮した。1968年、舞台出演中に倒れ、死去。次男は堺正章。
堺すすむ
川上のぼるの弟子。1967年、上京。空ひばり、和田アキ子、藤山寛美のものまねと漫談で人気を得る。1975年から11年間「歌まね振りまねスターに挑戦」で審査員を務めた。審査員特別賞が出なかったときの「今週はなーし!」のフレーズは有名。1980年代後半頃からものまね芸を捨て、フラメンコ漫談「なんでかフラメンコ」が大当たりし、テレビや劇場で活躍。
サカイスト
酒井伝兵と酒井将芳の実の兄弟コンビ。弟の将芳は、1996年7月、高校1年生のときに高校を中退して「今いくよくるよ」に弟子入りし、単身大阪へ。1年後、師匠から相方を見つけろと命じられ、兄の伝兵を誘い、伝兵も1997年8月に「今いくよくるよ」に弟子入り。1997年12月に弟子修行を終了し、師匠にコンビ名「サカイスト」をつけてもらい、1998年6月に銀座7丁目劇場で初舞台をふむ。「待った、なし、なし!」のツカミからはじまる兄弟ならではの息のあったかけあい漫才で頭角を現し、ルミネtheよしもとで活躍中。
堺正章
喜劇俳優の堺駿二は実父。子役として映画に出演後、1962年、「ザ・スパイダース」のボーカルになる。解散後、ソロ歌手になり、「さらば恋人」がヒット。役者としてドラマ「時間ですよ」「西遊記」や映画、舞台に出演。「紅白歌のベストテン」「トップテン」の司会や「カックラキン大放送」に出演。以後は主に司会で活躍。「新春かくし芸大会」の第一人者。
坂上二郎
歌手、青木光一の付き人兼司会となる。付き人仲間とコンビを組み、ショーの幕間で漫才やコントをする。コンビ解消後、1966年、萩本欽一と出会い、コント55号を結成。「ちっこい目の二郎さん」でお茶の間に親しまれた。コンビ解消後は俳優としてドラマ、舞台で活躍。歌手としても「学校の先生」やユニコーンとのデュエット「デーゲーム」がヒット。
坂田明
井上敬三に師事。1969年、宮坂高史らと「細胞分裂」を結成。1972年、山下洋輔トリオに加入。1979年に退団。「細胞分裂」を中心に活動し、ヨーロッパ・ツアーが大成功を収める。日本のフリージャズの第一人者。歌舞伎調ボーカル、「ハナモゲラ語」を話す元祖ハネモコシを演じ、「冷し中華の会」「ミジンコクラブ」を主宰するなどポップな冗談センスの持ち主。
坂田利夫
アホの坂田。吉本新喜劇に入り、前田五郎と1968年、「コメディNo.1」結成。坂田歩きと「あ〜りが〜とさ〜ん」「あんたバカね、オホホ」などのギャグで人気を得る。「アホの坂田」のレコードを出したが、発売禁止になった。漫才をする傍ら、キャラクターを生かしてバラエティ番組に出演することも多い。
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書籍
さかなクン
本名、宮澤正之。魚の帽子を被った魚好き。小学生でたこの落書きから魚類に興味を持ち始め、中学二年生でカブトガニの人工孵化に成功。テレビ東京「TVチャンピオン 魚通選手権」には、初出場で準優勝、その後、5連覇達成した日本一の魚通。TBS「どうぶつ奇想天外!」に出題者、解説者として出演。その高い声と早口、なんでも魚にたとえるキャラで人気者に。
坂野比呂志
オペラ歌手や漫才師を経て、大道芸人に。浅草木馬亭を中心に活動。1982年、浅草木馬亭で香具師や江戸時代から続くシジミ売りや納豆売りの口上の独演会を開き、芸術祭賞を受賞した。1985年に後に「坂野比呂志大道芸会」となる大道芸の研究会を作る。1989年、死去。
坂本新兵
大学時代は落語で活躍。ショパン猪狩の弟子。子供向け番組「ママと遊ぼう!ピンポンパン」の「新兵ちゃん」として有名。「帰ってきたウルトラマン」「フルーツケンちゃん」に出演。芸能界から引退し、1974年からは保護司として非行少年少女の更正に努めた。1996年、死去。
坂本ちゃん
1998年、添野豪と「アルカリ三世」を結成。「進ぬ!電波少年」の企画「東大一直線」で東大受験に挑戦。センター試験に失敗し、「どこでもいいから一直線」に企画変更して、私大14校を受験、入学した日大文理学部のほか7大学に合格した。オカマ風のキャラがウケ、多数のバラエティ番組に出演。
佐久間一行
東京NSC2期生。1996年デビュー。茨城弁で早口の口調が特徴的。親しみやすい服装と笑顔の和み系芸人。スタイルは、ひとりコント。ルミネtheよしもとで活躍。「新しい波8」「爆笑オンエアバトル」などに出演。
桜井センリ
クレージーキャッツには病気で倒れた石橋エータローの代役として加入。石橋復帰後もメンバーとして定着。コントでは石橋同様女性役を担当することが多かった。「キンチョール」のCMでの「ルーチョンキ。あら!? アタシってダメねぇ」のフレーズが人気を呼ぶ。以後は舞台やドラマで味のある演技を見せる。
桜井長一郎
1947年に声帯摸写で「第1回NHK素人のど自慢演芸会」演芸部門で優勝。1952年に30歳をすぎてプロになった変わり種。山本富士子、長谷川一夫、勝新太郎、宇野重吉ら芸能人から田中角栄、浅沼稲次郎ら政治家までと幅広いレパートリーで人気を呼んだ。ものまねに漫談調を取り入れるなど、声帯模写に革命をもたらした日本のものまねの元祖。1999年、死去。
桜金造
「ぎんざNOW」の素人コメディアン道場チャンピオン。その後清水アキラらと「ハンダース」を結成。1980年、解散。1981年、メンバーだったアゴ勇と「アゴ&キンゾー」を組み、「お笑いスター誕生!!」でチャンピオン。アゴ勇の病気によりコンビ解消。モト冬樹と「AJAPA」を組むも解散。その後、役者としての活動が主になり、佐藤金造から改名。
さくらんぼブービー
佐々十郎
ムーランルージュ、シミキン一座、森川信一座と軽演劇界で修業する。1950年頃に宝塚新芸座へ移り、関西を中心に喜劇役者として活躍する。1958年「やりくりアパート」で人気者となる。テレビ、舞台で様々な役で出演した。
ザ・たっち
ザ・ドリフターズ
「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」「いかりや長介とザ・ドリフターズ」を経て、1964年にいかりや長介、加藤茶、荒井注、高木ブー、仲本工事で再始動。1966年、日本武道館でビートルズの前座を務める。1969年、「8時だよ!全員集合」放送開始。1974年に荒井が脱退、志村けんが加入。「8時だョ!全員集合」終了後は「ドリフ大爆笑」以外は主に個人活動。
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里見まさと・亀山房代
1989年、「ザ・ぼんち」を解散したぼんちまさとが里見まさとと改名し、若手の亀山房代とコンビ結成。結成当時はまさとがボケだったが、後にツッコミを担当する。珍しい他人同士の男女コンビとしてしゃべくり漫才で数々の賞を受賞したが、亀山の結婚、出産のため、2001年に解散。まさとは13年ぶりに「ザ・ぼんち」を復活させた。亀山は東京でタレント活動。
サバンナ
立命館柔道部の先輩の八木真澄と後輩の高橋茂雄のコンビ。1994年、吉本興業入り。天然でギャグを量産するマッチョな八木と、頭の回転が速い高橋がマニアックでシュールなコントを繰り広げる。漫才が重用される大阪吉本でコント主体でがんばっているコンビ。八木は極真空手有段者。関西を中心にラジオ、テレビで活躍。
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ザ・プラン9
ザ・ぼんち
里見まさととぼんちおさむのコンビ。漫才ブームの寵児。漫才だけでなく、歌手としても1981年、「恋のぼんちシート」がヒット。武道館でコンサートも開いた。「おさむちゃんでーす」「そぉ〜〜なんです、川崎さん」「ありぃ〜?」「おこったぞぉ!!」などは流行語になった。漫才ブーム終了後、解散。2001年、まさとがコンビ別れをしたことを機に再結成。
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さまぁ〜ず
佐山俊二
戦前、戦中はタップダンサー、舞台役者として活動。コメディアンに転進、戦後は浅草オペラ座、ロック座などに出演した後、由利徹、南利明とトリオを組んでテレビドラマや舞台で活躍した。独特の軽妙さやおとぼけの演技で人気を得、軽演劇界の「お父ちゃん」と親しまれた。映画では「男はつらいよ・柴又慕情」「喜劇・命のお値段」などに出演。
猿岩石
無名時代に電波少年で「ユーラシア大陸横断ヒッチハイクの旅」に挑戦し、一躍有名に。帰国後はCD「白い雲のように」が大ヒット。その後CD数枚を出するも、本芸であるお笑いでは実力不足が露呈し、単なる若手芸人クラスまで落ちていく。2001年、番組で「手裏剣トリオ」に改名するも、効果なく結局「猿岩石」に戻した。
澤田隆治
「てなもんや三度笠」のプロデューサー。「花王名人劇場」を企画した漫才ブームの仕掛人。その後も数々のヒット番組を生み出した敏腕プロデューサー。お笑い番組だけでなく「ズームイン!朝」等の番組も手がけていた。テレビのほかイベントのプロデュースを手がけたり、公演を行ったりと多方面で活躍。
三笑亭笑三
学徒動員から復員し、1946年に三笑亭可楽に入門。1949年に柳亭春楽で二つ目。1954年、三遊亭円歌門下で三遊亭歌風となる。1958年に再び可楽門下に戻り、三笑亭笑三と改名し、1960年に真打に昇進。「上から呼んでも下から呼んでも三笑亭笑三」をキャッチフレーズに高座では主に新作落語を得意としている。十八番は「てれすこ」「大師の粋」など。
三笑亭夢楽(二代目)
1949年に古今亭今輔に入門。1951年に三笑亭可楽門下に移り、三笑亭夢楽と改名し、1958年に真打に昇進。「大工調べ」「三方一両損」など職人が主役の噺を得意とする。また「日曜演芸会」の大喜利コーナー「お笑い七福神」のレギュラーとして活躍した。海外公演を行い、在留邦人に落語を聞かせている。
三笑亭夢之助
1971年、三笑亭夢楽に入門。天性の明るさと親しみやすさで主にバラエティ番組で活躍。1983年に真打昇進。笑点の大喜利メンバーにもなる。高座の他、主に旅番組、グルメ番組のリポーターとしてお茶の間に登場する。リポーター界の横綱的存在。
三笑亭夢丸
1963年、三笑亭夢楽に入門。落語家というよりも「ルックルックこんにちは」の「突撃となりの晩ごはん」の突撃リポーターとしてお茶の間に浸透している。1978年、夢丸と改名して真打昇進。高座の他にリポーター業も続けている。
三瓶
本名、三瓶友敬。東京NSC5期生。高校卒業後に調理師免許を取得。思い出づくりに芸人を目指し、1999年、東京NSCに入学。「三瓶です」の自己紹介ギャグとデブを題材にした素人くさい漫談で「BACK-U!」で人気者になる。「笑っていいとも!」などに出演。
三遊亭円右(三代目)
1941年頃から橘ノ小円三で端席に出演。1947年に古今亭今輔に入門。1955年に三遊亭円右を襲名して真打。新作一筋に「銀婚式」「七夕おばあさん」などで色気のある老婆を演じた。つるつる頭がエメロン石鹸のCMとなり、一躍有名になる。
三遊亭円歌(三代目)
1945年に二代目円歌に入門。1959年に歌奴の名で真打昇進。自作落語「授業中」で人気を得る。「山のあな、あな……」で一世を風靡し、「歌奴ちゃん」の愛称でお茶の間の人気者となる。1970年に三代目円歌を襲名。1985年、日蓮宗の僧籍に入り、中沢円法を名乗る。1996年より落語協会会長を務める。
三遊亭円生(六代目)
1909年、少年義太夫から噺家に転向。1934年に橘家円好で真打昇進。1939年に円生を襲名した。戦後、徐々に話芸に磨きがかかり、高い評価を得るようになった。1965年から1972年まで落語協会会長、1973年には皇居で御前口演を行った。1978年、落語協会の真打昇進基準に異議を唱え、脱退。落語三遊協会を設立するも落語協会の妨害に遭い、苦しむ。1979年、死去。
三遊亭円丈
1964年、三遊亭円生に入門。1978年、円丈と改名して真打昇進。古典落語の円生一門にあって、自作落語や実験落語を専門に演じ、ニューウェーブと注目されたが、一門と距離が生じた。1978年の円生一門脱退騒ぎの内幕を暴露した著書「御乱心」は話題になるが、一門から破門同然の扱いを受ける。以後、演芸場やテレビで活躍。
日本狛犬研究会会長。
三遊亭円窓
1959年、春風亭柳枝の死去で円生門下に。1969年、円窓で真打。1973年から500噺を目指し、隔月に3席ずつ「円窓五百噺を聴く会」を開催。2001年、同会で前人未到の500噺を達成。本格古典派として埋もれた落語の発掘や仏教説話、民話などを題材にした落語の創作にも尽力。1988年、パソコン通信マスターネットでの「落語SIG」の運営にも参加。
三遊亭円遊(五代目)
1962年、円遊に入門、笑遊を名乗る。1976年、三代目若円遊を襲名、真打に昇進。1985年、円遊を襲名。笑遊時代は、テレビの司会やリポーターなどもこなしたが、真打昇進後は高座に集中。「天狗裁き」「松山鏡」などを得意とする古典派。
三遊亭円楽(五代目)
1955年、三遊亭円生に入門。1962年、円楽を襲名し、真打昇進。「星の王子さま」のキャッチフレーズで噺家タレントブームを作る。1967年、笑点の初代メンバーになる。1978年、師匠円生の落語三遊協会の設立に参加。師匠没後、円楽一門「大日本すみれ会」で寄席「若竹」を設立するが、経営難で閉鎖。以後、円楽党を率いて自主興行を行っている。笑点の4代目司会者。
三遊亭金馬(四代目)
1941年、先代金馬に入門。1958年、真打昇進。高座のほか、テレビにも出演。江戸家猫八、一龍斎貞鳳のトリオで人気を集めた「お笑い三人組」「青春カレンダー」「鬼平犯科帳」などで活躍。1967年、金馬を襲名。同年、勉強会「いななく会」を主宰。日本演芸家協会理事長を務める。国立演芸場開設の功労者。
三遊亭好楽
1966年、林家正蔵に入門、林家九蔵。1981年に真打に昇進。このころ短期間、笑点メンバーとなる。師匠の没後、1983年、三遊亭円楽門下に移り、三遊亭好楽と改名。笑点に復帰した。
三遊亭小円遊(四代目)
1955年、三遊亭円遊に入門。1968年に三遊亭小円遊を襲名し、真打。笑点の大喜利の初代メンバーで、「巷では……」「ボクちゃん」などキザを売り物にして人気を得た。大喜利では親友、桂歌丸と「ハゲ」の歌丸と「化物」の小円遊の壮絶な罵り合いを繰り広げた。落語は本格派で円遊襲名も近いと思われていたが、酒が原因で1980年、死去。
三遊亭小遊三
1968年、三遊亭遊三に入門。1983年、真打昇進。明るい芸風で、ラジオの商店街中継リポーターで人気者となる。真打昇進後、笑点の大喜利メンバーとなり、お茶の間にも浸透。大喜利ではスポーツや政治など幅の広い回答を見せる。活きのいい口調と切れ味のいいギャグが持ち味。1999年、落語芸術協会副会長に就任。
三遊亭楽太郎
1969年、青山学院大学在学中に三遊亭円楽に入門。1981年に真打昇進。笑点の大喜利メンバーとして加入、マラソンランナーの瀬古利彦に似ていたため、「落語界の瀬古」として売り出す。笑点では師匠円楽をヨイショしたり、逆にこき下ろしたりと表裏のある腹黒いキャラクターが定着。また健康についての研究で博士号をとり、教壇にも立つ知性派。
三遊亭柳枝
二代目三笑亭柳枝に入門後、三遊亭円子の預かり弟子となって三遊亭柳枝となる。落語家ではなく、漫才師、喜劇俳優として活躍。漫才をしばらくやった後、20歳過ぎで座長となり、全国を巡業。ミヤコ蝶々と結婚し、柳枝劇団を旗揚げするも離婚。南喜代子とのコンビの傍ら柳枝劇団を松竹爆笑劇と改め、角座などで喜劇を演じた。上方柳次・柳太の師匠。
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