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木川かえる
北野誠
同級生漫才コンビ解散後、松竹芸能入り。「突然ガバチョ」で一躍有名になり、「探偵ナイトスクープ」のリポーターなどで活躍。ラジオ「サイキック青年団」で、山本リンダをサイボーグ呼ばわりし、訴訟を起こされかける。東京進出後は「トゥナイト2」「噂の東京マガジン」のリポーターとして活躍。
キダタロー
高校時代バンドに参加。ピアニストを経て、作曲、編曲家に。「プロポーズ大作戦」のテーマやインスタントラーメン「出前一丁」のCMソング、「アホの坂田のテーマ」など2000曲以上を作曲、嘉門達夫につけられたあだ名「浪花のモーツァルト」で定着する。「探偵!ナイトスクープ」の顧問、「ものまね王座決定戦」の審査員など、テレビにも出演。
きたろう
小劇場で活動していたが、1979年、「シティーボーイズ」を結成。「お笑いスター誕生!!」に出場し、10週勝ち抜き。「シティーボーイズ」としての活動のほか、シュールなタレントとしてトーク番組に、個性派俳優としてドラマに出演している。
木梨憲武
高校の同級生、石橋貴明と同じく、素人参加番組に参加。その後、石橋と「貴明&憲武」を結成。就職したが、「とんねるず」として再スタートし、一躍スターに。女装や仮面ノリダーなどを演じた。一方、ドラマ「小市民ケーン」に主演、憲三郎&ジョージ山本として「浪漫」を発表。「木梨サイクル」などに出演。映画で共演した女優、安田成美と1992年に結婚。
木村進
三代目博多淡海の吉本新喜劇時代の名。
木村祐一
キャイーン
天野ひろゆきとウド鈴木の漫才コンビ。ウド鈴木のキャラクターと「キャイーン」のポーズでブレイク。ウッチャンナンチャンと共演し、地歩を固めた。SMAPの香取慎吾と番組で組んだり、ゴールデンに冠番組も持った。天野の器用さでウド鈴木の応用力のなさをカバーしているが、メインとしてはやや弱い。
キャプテン☆ボンバー
京唄子
入団した劇団で鳳啓助と出会い、結婚。エロガッパの鳳啓助と大口女の京唄子で夫婦漫才を始める。離婚後も漫才を続けるが、「唄啓劇団」を旗揚げし、演劇に転向。「おもろい夫婦」は離婚した二人が司会を務めるにも関わらず、長寿番組となった。舞台役者として活躍する中、「渡る世間は鬼ばかり」にレギュラー出演する。関西芸能界の御意見番的存在。
清川虹子
1933年、浅草で喜劇集団「笑の王国」に参加。1934年の映画出演を機に東宝の専属女優になる。戦前、戦後を通じて、数多くの喜劇俳優の相手役として活躍。1970年頃からは舞台とテレビに個性的な脇役として出演した。代表作に映画「サザエさん」「復讐するは我にあり」「楢山節考」など。90年に勲四等瑞宝章受章。日本の喜劇女優の先駆け的存在。2002年、死去。
麒麟
田村裕と川島明のNSC20期生コンビ。1999年10月、結成。ほぼ無名の若手だったが、「M-1グランプリ2001」決勝に残り、一気に評価を上げた。特にダウンタウン松本に誉められたことで注目を集める。川島のいい声と田村の気合を売りに作りこんだネタで観客を引き込む。吉本期待の若手実力派コンビ。大阪で多くの番組に出演。「M-1グランプリ2003」決勝進出。
キリングセンス
河崎健男、萩原正人のコンビ。1987年、コンビ結成。1993年、タイタン入り。シュールな芸風で、「ザ・テレビ演芸」の「飛び出せ笑いのニュースター」で5週勝ち抜きチャンピオンになる。萩原は1998年に肝硬変を発病。何度か入退院を繰り返し、病状が悪化。1999年に肝臓移植手術を受けるために渡米。さらに悪化し、腎臓と肝臓の同時移植を行った。手術は無事に成功し、2000年に帰国。リハビリ後、コンビでの活動を再開。移植関連のイベントなどに出演することも多い。
キングオブコメディ
高橋健一、今野浩喜のコンビ。元々ピン芸人だった高橋と別のコンビだった今野が2000年に結成。「おもしろコンビ」「パフィ」「キングオブコメディ」と改名。今野のビジュアルと不条理で不思議なボケと高橋の諭すようなツッコミというコントスタイル。「爆笑オンエアバトル」などに出演。
キングコング
西野亮廣と梶原雄太のNSC22期生コンビ。1999年、結成。NSC在学中にデビューした吉本期待の若手。速いテンポと軽妙な動きで舞台を広く使う漫才で漫才賞を総ナメ。大阪では女子高生を中心に絶大な人気を誇る。「WEST
SIDE」の一員。「はねるのトびら」に出演するなど、次のスター候補として期待されている。
金原亭馬の助
1944年、五代目古今亭志ん生に入門。1955年、真打に昇進。師匠ゆずりの軽妙な芸風で「七段目」などの芝居噺も得意にしていた。鳴り物の名手。「日曜演芸会」では大喜利「お笑い七福神」のレギュラーメンバーとして活躍。期待されながらも、1976、死去。
金原亭馬生(十代目)
父は五代目古今亭志ん生、弟は古今亭志ん朝、娘は女優、池波志乃。1949年、金原亭馬生を襲名し、真打昇進。名人である父の下、あまり目立つ存在ではなかったが、稽古熱心で、噺の数も豊富。年を経るにつれ、語り口にも独特の味が出てきて、ついには名人と評されるようになる。1982年、死去。
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